ポップはなにに衝撃を受けていたのか

 ダイの大冒険のネタバレ

 

 アバンのしるしが光らないことに悩むポップだったが、マトリフのところへ相談(?)にいく。悩むポップにマトリフは何に悩んでるかわからない、ひょっこが成長した。俺にマトリフのしるしがあったらくれてやる、と笑う。そこでポップは衝撃を受け、引き返す。このやり取りがさっぱりわからなかったが、ようやく見当がついた。ポップはアバンの弟子としては仮免状態であることに気づいて、そのことに自分の自信のなさの理由を求めた。そんな自分をマトリフは認めてくれているので、自分の考えがマトリフにとって失礼であることを感じたのだろう。いやー、こんなのわからないだろ。最初にここを読んだのは小学生のときだったか…いい師弟関係だね。

 

 さらにいくつか思いついたので追記。なんでマトリフはポップの悩みが何か見当がついたのか、というかマトリフはポップの持つ悩みにいつ気付いたのか、である。原作内で明言されているのは「おおよそ読めたぜ」のコマだが、実はそれより前にマトリフはポップの悩みの正体に気づいている。それはどこだったかというと、「……待ちな!」のコマであろう。ポップはパーティメンバーとの出自の差に強い引け目を感じていたが、そのことに気づいたためマトリフは全てに恵まれていたらここまでこれなかった、だれよりも強くアバンにあこがれ*1苦闘の道を歩めた、とポップに言うことができたのである。ちなみに何でここでマトリフがここでポップの悩みを察することができたかと言うと、原作内のヒントとしては「しょせんおれなんかただの武器屋の息子なんだ」「最後の最後で越えられない一線が来ちまった」(マトリフのしるしがあったらとっくにくれてやってる、と言った後に)「すまなかった師匠…甘ったれちまって…!!」あたりなんだろうけど、これで気づけるのはエスパーすぎひん?まあ原作者が神がかり的にマトリフに降りてきた、ということで。

 しかし、マトリフはほとんど正確にポップに必要な言葉をかけてやっているとは思うが、それだけでは足りなかった、のであろう。足りなかったものがなんだったかがマァムに関連しているような気がするが、そこらへんは筆者はよくわからないのである…

*1:ここでアバンの名を出すのがエモい。自分の名前はださんのか…w?

空裂斬とグランドグルスについて

 以下ダイの大冒険のネタバレ。

 

 ダイの大冒険のスピンオフがでている。バーン出現以前のアバンとハドラーが争っていた時代の話だ。筆者としてはバラン相手にビビりまくっていたハドラーよりさらに昔の状態の話を見ても色々厳しいのでは?ハドラーを美化してしまう事態になると本編が台無しになってしまうのでは?と心配になってしまう。まあ、きっと三条氏ならなんとかしてくれるだろう…また、まぞっほ関連のエピソードが筆者は大変好きなので、まぞっほとマトリフの過去話がでてくると嬉しいのだが、まぞっほの過去話を見ても辛いだけにはなるだろう…辛くないと本編がやはり台無しになるし、あと、まぞっほがマトリフと修行していたのはハドラー時代よりさらに前だろうしな。

 アバンの過去話というと筆者が最も気になるのは、「アバンはどのように空裂斬をマスターするのか?」である。空裂斬の完成はアバンストラッシュの完成を意味するので、ダイの大冒険的にも重要な意味を持つが、筆者としては空裂斬を使えないということは正義のエネルギーを上手く制御できない、ということだと解釈しているので、空裂斬を習得するということは本編では完璧人間であるアバンの未完成な面を描かなくてはいけない、特に、正義のエネルギーを上手く扱えないアバンというのはどうなんだ?それはアバンではない、のでは?というか、そもそも正義とは一体なんであるのか?ということに触れないわけにはいかないのでは?と思われ、そこらへんどうするつもりなのか気になるのである。そのことを筆者自身も考えてみたいので、次のことをしてみよう。本編でも空裂斬の習得は非常に困難であるものとして描写されているが、各キャラと空の技の関わりにおいてどうだったか見てみよう。

 ダイは主人公であり、正義の心を持ってはいたが見えるものに固執し過ぎていたために空裂斬を取得できていなかった。そのため非常に目でとらえることが難しい敵(弾岩状態のフレイザード)に直面し、ヒュンケルの機転で目をふさがれる(今思うと上手くいったからいいもののとんでもない無茶だな。しかしあのままではジリ貧なので無茶は最善の方法だったかもしれないが…)ことで悪のエネルギーを目にとらわれず捉える術を身につけるのである。あれ?ここまで書いてみると、アバンの過去でもこれと同じことをすればいいだけのように思えてきた。目で捉えにくい敵を出して、心眼で敵を斬るようにすればいいのである。別にアバンが正義として未完成である状態なんて書かなくていいかもな。まあ、フレイザードのときとほとんど同じことをするなんて芸のないことをしないようにはして欲しいが…筆者の当初の疑問も空振りであろうか。しかし、いろいろ考えてしまったのでとりあえずダイ以外のキャラクターたちにとって空裂斬とは何だったかをこのまま見続ける。というか以下かなり脱線。

 ヒュンケルにとっては空裂斬は習得不可能なものであった。暗黒戦士であるため正義のエネルギーを上手く扱うことができなかったのである。しかし、フレイザード戦ではヒュンケルは正義のエネルギーを上手く扱えなかったが、ヒュンケルはグランドクルスを使えるではないか?あれができるのならば正義のエネルギーを扱えてもよいのでは?と思って原作を見返したが、グランドクルスは命のエネルギー、闘気の技である、ということになっており、正義のエネルギーではないのである。やられた。しかも、後々グランドクルスはドルオーラ等と同じカテゴリーであることが示唆され、ドルオーラは竜魔人化したバランでも使えることから正義の心を持つ者でなくても使えることも示唆されている。三条氏の設定力はさすがである。とはいえ筆者としてはグランドクルスを単にドルオーラと同じカテゴリーにしたくはない。何かが違う気がするのである。ダイ側が使う技なので正義のエネルギーがないと使えない技のような気がするだけかもしれないが、それだけでもない気がするのである。

 そこで、グランドクルスとは何か(特にヒュンケルが進化させたもの)、を考えるためラーハルト戦でのヒュンケルを見返してみよう。そこでのヒュンケルはバランに強いシンパシーを抱いており、「”くらってもかまわん”という覚悟」を持ち、「生命を囮」とし、「アバンの使途の絆」であるアバンのしるしを使ってグランドクルスを放つのである*1。覚悟や生命を囮からはグランドクルスが命のエネルギーの技であることが強く示唆される。しかし、シンパシーの心や使途の絆が重要であることは正義っぽくないだろうか?そもそも正義とはなんだ、ということを定義しないといくらやっても明確ではないというのはそうだが、逆に「正義」とは何なのかが強く示唆されているようにも思われる(ここらへんからダイの大冒険を超える、ジャンプ、むしろ近年の日本にとっての正義とはなんだ、という話がでてきそうな気がしてしまうのだが…)。また、バーンプレス脱出の際にヒムがグランドクルスを使用していることも興味深い。この時点で、ヒムはダイパーティーを「好きになっちまった」のであり、自分の体が崩壊することもいとわずグランドクルスを放っている。グランドクルスを放つ条件を満たしており、ヒムが完全にダイパーティーの一員である(ハドラーパーティーからの助っ人ではなく)ことを示すよいシーンになっているが、別に正義の心が生まれていないとするとちょっと微妙になってしまわないだろうか?

 途中から空裂斬ではなくグランドクルスの話になってしまったが、結果的に「ダイの大冒険にとって正義とはなんだ?」を考えることができたので良しとしよう。今まで空裂斬が重要ということは思っていたが、ダイの大冒険的にはグランドクルスの方が重要な技かもな、と思えてきてしまった。

 ここでさらに空裂斬とグランドクルスについて考えるために、他に空裂斬を使えそうなものは誰か、他にグランドクルスを使えそうなものはいるか?ということを考えてみよう。

 グランドクルスに関しては、まず候補の条件を書いてみよう。魔法が使えない戦士であり、覚悟があり、パーティーへ強いシンパシーを持つ者である。いっぱいいそうだ…しかし、ラーハルトはダイパーティーよりではなくダイよりであり、クロコダインは命を懸ける場面で大防御に回るのである。そう考えると、筆者として推薦したいのはチウである。単純にレベルが低いのが困ったものだが、レベルが低いにもかかわらず自分より強いものに向かっていける度合いではポップよりも上ではないだろうか。何より自分で作ったよくわからない設定を強者に対して張り倒すことのできるキャラは筆者の大変好みであるし…しかし、チウはどっちかというと獣王会心撃の方が使えたほうがいいかもしれないが隊長が隊員の技を使えてもな…ブロキーナ流と合わせて何かでないかな。

 しかし、空裂斬を使えそうな他のキャラというと難しい。今までの思考の流れでは、グランドクルスを打てる者は空裂斬を打てそうなのである。空裂斬を打てる者にはグランドクルスを打てる者にはない条件があるべきではなかろうか?アバンやダイでないと使えない理由があるとよいのだがそれは何だろうか。勇者であることか?アバンとダイの共通点として、他者に勇気を与えることができるというのはあるが、それは他の者では絶対にできないことだろうか?

 そこで話が飛躍的だがマァムが空裂斬を打つことができるか?と考えてみよう。彼女が空裂斬を使えるというのは意外と筆者にはしっくりくる。アバン流は武器を選ばないが、拳法に関してはより専門家がいる、ということを差し引いてもである*2。マァムとヒュンケルの違いを考えると何となくそれはわかってくる。グランドクルスはやけくそ感が強いのである。確かに生命を捨てる、というか晒す覚悟をもつことは凄いと思うが、ちょっとそれに酔ってる気もしてくるのである。グランドクルスを使用した者がバランスを崩し致命的なダメージ負うというのは本編では描かれなかったが、ヒムは自己崩壊一歩寸前だったのであり、もしバーンプレスからは脱出できたがヒムは失われたとなったらグランドクルスに対して単なる必殺技以上の負のイメージが強くなるのではなかろうか?ほとんどメガンテと同じ。そう考えると他人を鼓舞すべき勇者が使う技ではない(あくまでヒュンケル版は)と考えられる*3。ではマァムはどうか?彼女はグランドクルスを使うであろうか?筆者はマァムはグランドクルスからは遠いと考える。バルジ島でヒュンケルがグランドクルスを使用した際マァムは「たとえ自分の身がどうなろうとも仲間を救うためなら生命をかける」と言っているが、その一方で一番生命をかけることを最終手段にしそうなのも彼女である。しるしの光からもわかるように、彼女の他者を案じる心は強いわけだし、自爆技には強い抵抗を持ちそうである。また、フレイザードに無謀な戦いを挑むダイを気絶させてでも連れ出すことから一か八かの勝負をそう簡単には行わないことが描写されているし、彼女の一番の見せ場であるザムザ戦でも戦いのキーとなったのは命を晒す覚悟ではない*4

 こう考えるとヒュンケルとマァムが違うことはよくわかる。しかし、それはあくまで両者の違いであってマァムがグランドクルスからは遠い理由になっても空裂斬を使える理由になるだろうか?筆者はいまだにマァムが空裂斬を使用可能説をとりたいが、これ以上はまだ説明できない*5。ここまで書いてきて思ったが、そういや明確に正義の心が強いことが描写されているキャラがいた。レオナ。というか、レオナがミナカトールを継承する場面見返して見ると結構難解で正義とは何かについて結構書かれている…「悪を倒すためではなく」「受け継いできたものが決して間違っていない」とは…といったところで今回は終了。何が言いたいかったのか迷走してるけど、ブログだしこれでいいでしょ。

 

 

 ところで、これは余談なのだが、以下のページによればグランドクルスは魔法の使えない者のための技であることが本編で触れられていることが指摘されており、元々はアバンが開発した技ではないことが示唆されている。慧眼である。また、そこでアバンの仲間の戦士の存在が指摘されている(まあというか〇カだよね)。

グランドクルス (ぐらんどくるす)とは【ピクシブ百科事典】

 しかし、筆者としては開発者はさらに別の者ではないかと考えている。その理由は、ハドラー軍には武人であり、正義の心を持っていそうで、生命を晒すこともできそうで、よりヒュンケルに強い因縁を持つ者が存在するからである。そう、〇〇〇ス。実はヒュンケルの奥義は彼由来だったのである、となると筆者的には大変好みなのである。

*1:強い気持ちを抱いてラーハルトを撃破したヒュンケルだが、バラン相手には実力が違いすぎて何もできず。しかし、このとき抱いた思いがその後きっちり無刀陣で回収されるので、よくできた物語である

*2:アバン流拳殺法があっても、ひいてはアバンストライクがあってもいいではないか。マァムさんの今後に期待

*3:アバンはメガンテを使った瞬間「勇者」をダイに譲り渡したのである…と言えなくもない?勇者は複数いてもよいのか?

*4:彼女自身の鍛錬を信じることである。また、ダイの大冒険ではバトルは命が懸かっていることは前提ではあるのでマァムが命を懸けてないなどとは決して言えないが…

*5:書いてて思ったが、マァムは「頼りになる」キャラだ。いざとなったら自爆技に走りがちなヒュンケルやまぞっほやマトリフらがいなかったら何度逃げ出していたかわからないポップよりもよほど頼りになるだろう。筆者は頼りになるキャラが好きなので、安定しているキャラが好きである。ダイの大冒険で一番好きなのはアバン。もっとも安定感がある以上の魅力が彼にはあるのでいつか書いてみたい

出会って5秒でバトルは良いアニメ制作陣にあたらなかった

出会って5秒でバトルはその安っぽいパロディタイトルとは異なり大変格調の高いバトルマンガである(バトルマンガの格調ってなんだよ、という気もするのはもっともだが)。なぜかというと、他人を信じるということはどういことなのか、主人公は他人を信じるということをどういうことだと見出していくのか、という人間にとっての大問題*1が主人公に立ちはだかるからである(また、格調とかぬきにしても、単純にクオリティが高くやたらと面白いとは思う)。しかし、アニメのクオリティに関しては正直もっと頑張ってほしかった、と思う。なんか全体的に安っぽいな、という印象であったが、あんまりこの話を理解してないスタッフに当たってしまったのかと一番思わされたのはエンディングテーマの歌詞である。クオリティが低いかどうかとかいう問題ではなく(露骨にヒステリックで安っぽい歌詞だとは思っているけどね)、主人公のアキラと正反対の人間について歌っているように感じるのである。エンディングテーマでは大して強くないわがままなプレイヤーの視点で書かれているが、アキラは全く逆でトッププレイヤーなのである。運営に安い文句を言ったりしないし、初回ガチャだとかリセマラだとかにもほとんど頓着しない。一億のプレイヤーの頂点を目指せる存在である。ついでに実況プレイもしなさそうである。歌詞の作者はアキラをよく理解していてあえてそれとは真逆の人間を書いているのである、とも思う人がいるかもしれないが、そうする必要性は筆者はわからない。単に番組スタッフがソシャゲのデスゲームっぽい番組のエンディングの歌詞を用意してくれとエンディングの作者に雑に頼んでできあがった曲、というのが一番ありそうな経緯に思える。まあつまり番組スタッフが一番悪い気がしてならない。と考えてくると、オープニングテーマのタイトルもあんまりあってるとは言えない気がしてくる。アキラはルールに従ってその中で抜群の成績を出すプレイヤーであって、ゲームチェンジャーではない。ゲームチェンジャーというなら運営にバトルをしかけた万年青とか魅音の方がよほどふさわしいと思う(もっともアキラの設定は全て明かされているわけではないので今後の展開次第ではこれは話がちがってくるのだが。まあアニメ放送分に限って言えば筆者の言った通りになっていると思う)。ついでに蛇足だが、ドラゴンボールTのYeah! Break! Care! Break!も歌詞があってない気がしてならない。別に悟空は世界を守るために生まれたつもりねーだろ、かけがえないこの星ゆずれないとも思ってないのでは?と思えて仕方ない。

*1:くどいけれども俺ガイルはそこを最後微妙、と言うより良くない方向にしてしまった、と筆者は思う。結でどうなっているかは知らない

なぜポップはカイザーフェニックスを消せるのか

ダイの大冒険のネタバレ

 

俺ガイル作者も大好きダイの大冒険(確か2回引用されているが、他に2回以上引用されてるやつあったっけ?)のポップ。終盤には大魔王の大技の一つであるカイザーフェニックスを両手でシュバっと消してみせることで成長をみせつける。「ポップはカイザーフェニックスをもあっさりと消してしまえるくらい成長したのだ!」と素直に考えてもいいが、実はそれができるのはちゃんと伏線があるのだと思っている、ことについて書く。伏線とは

1. ポップは呪文を非常に収束させて放つことができる(花びらにギラで穴を空ける)

2. ポップは正確に呪文のエネルギーをコントロールできる(炎と氷を調節してメドローアをうてる)

(1.  2. を合わせてポップは呪文を精密にコントロールできる、と考えてよいか)

3. ダイの大冒険の世界では、同種の呪文をぶつけると相殺できる(バルジ島のハドラーとの戦いでポップはベギラマベギラマで消している。ちなみに、反対のエネルギーの魔法をぶつけてしまうとメドローアになってしまうのだが…)

4. ポップはメラ系呪文が得意(メドローア習得の際のマトリフの心内セリフより)

である。これにより、例え天地魔闘の構えを破るのに全魔法力を使っても、得意なメラ系魔法を集中させ、カイザーフェニックスを消せるのである…とはいえ、この仮説には弱いところがあって、いくら残り少ない魔法力を集中させることでカバーしたとはいえ、カイザーフェニックスを消せるほどまでなのか?という疑問があるのである。なので、カイザーフェニックスには核みたいなものがあって、呪文を精密にコントロールできるポップは正確に捉えることができる…ということにしておこう(後、バーンの消耗も相当だったということで)。

 

この仮説と似たようなことを考えている人をどこかで(どっかの掲示板だった気がするので、追いようがない)見たような気もするが、まあご容赦ください。

 

(花びらにギラで穴を空けるはメドローアの伏線だったかな(呪文のコントロールが精密であることを示唆しているという意味で)?)

 

12-14巻の問題点

以下俺ガイルネタバレ込み

 

詳細はいつか書きたいけれども、12-14巻はこの物語はラブコメなので八幡と雪ノ下をくっつけなければならないけど、主人公が自分の肝心な問題から目をそらすし3人ともストレートに動いてしまうとどこかが崩壊してしまうのでどうにもなっていなかったのを由比ヶ浜におんぶに抱っこしてもらって困難なところを解消した、というのが筆者の認識である(そこに晴乃は気づいているので、実はこいつはいいやつ、という認識に改める)。しかし、偉大なる功労者由比ヶ浜にろくに向き合わず(一人でどう考えたかは知らんけど、自分が由比ヶ浜をどう思っているのか一切伝えてないだろ)あくまで明言をさけつつ振る、というのはいくらなんでも暴挙だし、その他にも言葉なんかじゃ伝わらない、みたいなこと言い続けるのはせっかくの9巻が台無しなので、俺ガイル結をやるんだったらそこらにフォローが入るような話になるんだろうなと予想しておく(単純に由比ヶ浜ルートやるだけならそうはならないかもしれんが)。

 

筆者は半年以上前に書いた11巻に関するあれこれをwindows更新で失ったので、だるいけど復元するか、もしれない

「本物が欲しい」とはどういうことか

 9巻のこのセリフは有名だしインパクトが強い*1。アニメだと普段はやさぐれている八幡が表情をめちゃくちゃにして言っているのも大きい。しかし難解なセリフだとは思っていなかった。ギリギリの人間関係をつなぎとめるには自分に素直になって気持ちを表明することというのは王道なので、その系統のセリフなんだろ、ぐらいに思っていた。今でもそれは大外れしているとは思っていないが、2巻と8巻の記述、9巻での平塚先生との場面を合わせて読み直すと事態はもう少し複雑である。

 8巻末には以下のセリフがある。

 何も言わなくても通じて、何もしなくても理解できて、何があっても壊れない。

 そんな現実とかけ離れた、愚かしくも綺麗な幻想を。

 そんな本物を、俺も彼女も求めていた。

  このセリフを読んだとき嫌悪感もあったのだが、それ以上に強い違和感があった。そんなことこいつ考えてたっけ?と思った。結論から言うと考えていたのである。それがどこから推察されるかというと2巻末に書いてあるこれ(とこのセリフを含むシーン)からだと思っている

 いつだって期待して、いつも勘違いして、いつからか希望を持つのはやめた。

 だから、いつまでも、やさしい女の子は嫌いだ。

 これは由比ヶ浜に気にして優しくしてんならやめろ、と言った後に過去の女性をめぐるトラウマを思い出しながらやさぐれて言ったセリフである。八幡は本編中に中学時代女性にアプローチをかけてひどい扱いをされた記憶が複数ある。中学時代もぼっちだったことは複数記述があるが、それを考えるとずいぶん女と付き合いたかったのだなということが分かる(折本に告白するような人間であるし)。ひどい扱いをされた結果上記引用のように女に対してかなりの予防線を張るようになってしまい由比ヶ浜のようにかなりわかりやすく好意を向けてくる人間に対しても冷たくしてしまうのである(折本に振られた人間が由比ヶ浜を袖にするって意味わからんな)。しかし、八幡の中で女性に対する思いは消えていない。それは戸塚に対する内心の声の数々からもわかる。作者もどこかのインタビューで言っていた気がするが、戸塚に対して八幡が素直に好意を出せるのは戸塚が女でないのでトラウマを与えられる心配がないからである。リスクがないところでなら女に対する感情を素直に肯定できるのである。なので、八幡は「トラウマによって好意を向けてくれる現実の女には冷たく当たってしまうがその実女に対する欲望はいまだに強くあり、またそのことを直視できない」状態なのである。そんな人間が「人の感情を正確に受け止めたり自分の感情を伝えることは怖いがそれでも女との関係を築いて好かれたりしたいので、相手の感情が自然に理解されたり自分の想いが労せずとも伝わってしまえばいいのに」と心の底で思うことは無理ではない。そのため8巻末のようなモノローグがでてくるのである。

 その観点を補強してくれるのは9巻の平塚先生との海のシーンでのこれである。

「よく見ている。君は人の心理を読み取ることには長けているな」

(中略)

「けれど、感情は理解していない」

 息が詰まった。声も、言葉も、ため息だって出てこない。核心を突かれたと感じる。

 理解していないのは、目をそらしているからである。他人に対しても、自分に対してもである。以下のようにも考えている。これも補強してくれる。

好意とか友情とかあるいは愛情だとか、そうしたものはいつも勘違いしか生んでこなかった。(中略)

メールが届いたり、ふとしたときに身体に触れられたり、(中略)いつも帰る時間が同じだったり、そのたびにまちがえてきた。

 もし……。もし、仮にそれが正しかったとしても。

 俺はそれを信じきれる自信がない。

また、「本物が欲しい」と発言する前に以下のようなことを考えているが、これも上の観点から解釈ができるだろう。

 俺はわかってもらいたいんじゃない。自分が理解されないことは知っているし、理解してほしいとも思わない。俺が求めているのはもっと過酷で残酷なものだ。俺はわかりたいのだ。知って安心したい。安らぎを得ていたい。わからないことはひどく怖いことだから。完全に理解したいだなんて、ひどく独善的で、独裁的で、傲慢な願いだ。本当に浅ましくておぞましい。そんな願望を抱いている自分が気持ち悪くて仕方がない。

 けれど、もしも、もしもお互いがそう思えるのなら。

 その醜い自己満足を押し付けあうことができて、その傲慢さを許容できる関係性が存在するのなら。

 わかりたいものは相手の感情であろうし、自分の感情でもあるだろう*2。であるので、8巻末のような表現がでてくるのである。

 ここまでくれば、件名にもあるセリフで八幡が言いたかったのは「相手(と自分)の感情を(ごまかさず)理解したい」ということと考えてよいのではないだろうか。しかし、トラウマも消えたわけではなく、それをそのまま言う(考えることすら)にははいまだに強い葛藤がある。しかし、言わなくてはならない。その結果が

「俺は、本物が欲しい」

 である。打って出たのではあるが、いまだに最後の抵抗を払いきれてない、というセリフなのである*3

 また、なんであの場面で「相手の感情を理解したい」なんてことが頭に上るのかというと、もはや場を納めるセリフは持っていないがそれでも何とかしたいがため、そもそも何で自分はここに来たのかを必死に考え直していたからである。それは、大切に思う相手がいるからであるが、それを直視することに困難を抱えるためあのような思考の流れとなるのであろう*4

  筆者は原作を読む前は「本物が欲しい」とは最初に書いたような意味だと思っていたので、このセリフを言うということは自分に正直になる、あるいはなっていくという意思表示だろうと思っていた。なので、3期の展開はうっとおしく見えたのである。はじめにで書いたようにとっととケリつけろと思っていた。しかし、それはできないことも今回読み返してよくわかった。いまだに最後の抵抗を残しているのである*5。だからといってイライラが完全に消えるわけではないのだが(しかし、3期分の原作を読む前からイライラしたところで勇み足を増やすだけなのだが)。

 さて、ここでの考察(というか推測というか)によってこのセリフをいうことになった八幡の心境がどのような影響を11巻の最後のやりとりに与えたかにも触れられるだろう。

*1:それだけによくいじられる。さらけだされた他人の強い思いをいじるのは簡単である

*2:しかし、「自己満足を押し付けあう」ためには、相手も自分のことが分からなくてはならない。自分を相手に分からせなければならない。「理解してほしいとも思わない」などと言っている場合ではない。そのことに気づいていない。修行が足りない。

*3:最も、この短い抽象的なセリフと壮絶な表情が合わさることによってそれを見るものに単純ならぬ解釈を引き起こすことができ、結果として雪ノ下の心を打てたのであるが

*4:余談だが、八幡はよく言ったらわかるってものではない、とか言葉があるから間違えるとか考えているが、そもそもそういうことを言い出すときはたいてい言葉にして直視するのに抵抗がある(または、恥ずかしい)だけであろう。現実の世界でもよくあてはまることである。本当に言葉にできない場合は人間はぽかんと立ちすくむのである

*5:ここからは(も)推測であるが、なぜ最後の抵抗が残ってしまうかというと、トラウマが後を引いているからである。平塚先生も自分の感情を直視するようには言ったが八幡がトラウマによって苦しんでいることには触れられなかった。そのため不十分なのではないか。ちなみにこの八幡のトラウマに向き合ったことがあるのは葉山だけである(8巻。向き合い方はイマイチだった気がするが)。ちなみに自分の感情を直視して八幡にぶつけてきたのも葉山が初めである(4巻の「仲良くなれなかっただろうな」)。やっぱり葉山は重要キャラかな。海老名がはちはやにこだわるのも当然か

そんなに自己犠牲はしていない

というのが(11巻まで読んだ中で)一番気になったところに関する箇所である。では文化祭で行われたことは何だったのかということを書きたいのである。それをするためにはおそらく6巻のみについて考えればよい。しかしこのような見出しをつけてしまった以上修学旅行で行われたことは何だったかということも書きたくなってくるし、それをするためには7巻を読むだけでは足らず、9巻(平塚先生が八幡にかけたセリフ、八幡を追い詰める雪ノ下のセリフ)、11巻(雪ノ下の依存心とは何なのか)に触れる必要がある。また、11巻の内容をよく考えようとすると最後の水族館での由比ヶ浜の提案を否定するときの八幡の頭にはどんなことがあったのか考えたくなるのでやはり9巻に戻ってかの有名な「本物が欲しい」とはどういう意味だったのか考えることになる。なお、それを思考するためには2巻と8巻(と5巻?)に目を向けなければならない。というわけで考えるべきことと書くべきことが増える一方であり、ちっとも記事がまとまらない(文化祭のことについてさっさと書くという手もあるだろうが、そうすると修学旅行について書くまでに間が空いてしまうので、記事としてのまとまりが微妙な気がするので、もろもろ書いた後修学旅行を書き、最後に文化祭を書くということにしたい)。

 ちなみに、2番目に気になったのは4巻での葉山の発言である。特に、「本物が欲しい」とはどういうことか考えた上で再考してみると味わい深い、かもしれない。